第63話:延岡藩の幕末の志士胤康禅師(3)=寺田屋事件 

No.63> 第63話:延岡藩の幕末の志士胤康禅師(3)=寺田屋事件

        延岡藩の胤康禅師が寺田屋事件の思想面での指導者であった


 
今回のトピックス


      勤王派側である公武合体派と草莽レベルの尊王攘夷派(倒幕派)の衝突であり、
      薩摩藩内部の抗争ともいえる大きな事件である寺田屋事件に胤康一派が大きな役割をしていた。

      胤康一派の小河弥右衛門(一敏)の記録から胤康の考えを解き明かす。



                                         (2018.6.17)


【1】 寺田屋事件


幕末には、宿屋名のついた事件がいくつもある。その代表例が池田屋事件
寺田屋事件(IとII)近江屋事件等である。これらの多くは、幕府側の新選組等が、
反幕府となる尊王攘夷の過激派を襲撃したものである。

池田屋事件は、前年、公武合体派による朝廷内でのクーデーターの成功により、
劣勢になった尊王攘夷派が、長州藩を中心に一発逆転を狙ってクーデター計画を持って、
元治元年(6月5日)、池田屋に集結しているところを、新選組によって襲撃され、
後、新選組の勇名をはせる原因となった事件である。

寺田屋事件として2度も名前の出る寺田屋は、京都伏見にある宿である。
右に寺田屋の現在の写真(写真1)を示す。これは、歴史上有名な寺田屋の敷地に、
明治時代に建て直されたもので、実物ではないが、現物の様子を示しているのかもしれない。


右第2の写真で見る碑(上記寺田屋の隣の敷地に立つ)をみると分かるように、
ここは2度の事件で名をはせていることがわかる(IとIIに対応。坂本龍馬の名が見える)。
そもそも、伏見は、大阪から淀川を荷物や人を乗せて上がってくる三十石船の船着き場(写真3)のある場所である。

三十石船は、当時の、京都―大阪の往来の大事な交通手段なので、伏見のこの辺りは、大いににぎわったことだろう。
そして、ここは、伏見奉行所からも近く、鳥羽伏見の戦の中心となった場所で、同宿もこの戦で焼失している。
近くには、月桂冠などの酒蔵もある。見学に行くことをお勧めする。

寺田屋事件(II)というのは、慶應2年1月23日、伏見にある薩摩藩定宿である寺田屋に泊まっていた坂本龍馬たちに、
幕府伏見奉行捕り方が急襲した事件であるが、この時は、竜馬は、傷を負いながらも、お龍の機転で脱出できている。
また、近江屋事件は、近江屋に泊まっていた坂本龍馬と中岡慎太郎が、幕府側と見られる集団に襲われて絶命した事件である。


ただし、急襲した連中が何者かについては、諸説ある。
定説では、京都見廻組今井信郎達が襲ったことになっているが、
筆者は、いろは丸事件を逆恨みした紀州藩による襲撃が最も有りそうな話であると考える(参考;当レポート:#16)。

事実、海援隊も紀州藩による襲撃が最も臭いと見て、直後に、紀州藩の御用人・三浦休太郎を襲撃している(天満屋事件)。

ところが、寺田屋事件(I)は、先述した幕府側による宿屋急襲事件とは、色彩が、全く異なり、
いわば、勤王の志士同士の内部での抗争事件である。

尊王攘夷運動の中心メンバーが、薩摩藩の国父(藩主の父)久光の命により襲撃された事件である。
そして、その後の歴史展開には、大きな影響を与えた事件である。この事件に、我が延岡藩の胤康も絡んでいるのである。

【2】 寺田屋事件と尊皇攘夷運動


寺田屋事件を理解するため、そして、胤康がどのように絡んでいたかを
みるために、まず歴史内の尊皇攘夷運動を理解しなければならない。

右に尊王攘夷運動を中心にした事件の年表を示した。文久年間(3年ほど)は、
尊王攘夷運動の最も激しい時代であった。尊皇攘夷論の志士は、
勤王たらんとすると、藩主や徳川将軍は、無用という極論に達しやすい。

しかし、儒教の強い影響もあるが、武士の武士たるところは、
藩主への忠誠であるという考えは、否定しがたい武士も多く、
勤王の志士たちの多くは、脱藩して活動するものが多くなるが、
そうすると、個人の情熱はあっても藩全体を動かすという組織力が無くなり、
いざ戦闘を考えるとどうしても非力である。

明治時代になると長州藩出身者が目立つが、幕末の歴史を中心となって
動かしたのは、薩摩藩である。

薩摩藩の中心人物は、すべて、誠忠組という尊王攘夷をめざした内部組織に属している。
同組織のトップは、西郷隆盛であり、大久保利通などすべての薩摩藩の志士が属している。

この時代、和宮が徳川家に降嫁して、朝廷と幕府の連合策(公武合体)が
実施された直後であり、勤王派も尊王攘夷派公武合体派に分かれていた。
尊皇攘夷派の中には、次第に、倒幕へ傾いていく過激派が出てきている。
公武合体派は、藩主クラスが多く、下級武士は尊王攘夷が多いという図式である。

西郷隆盛は、水戸藩と連携して、桜田門外変、坂下門外変、寺田屋事件(I)などの 陰の策略派ような過激な役割をしているが、実際には、いろいろ事情があって、 現地に間に合っていない。

桂小五郎も似た役回りをしているが、幸運にも、生き延びて、維新を完遂できた。

   
  図5> 真木和泉    図6> 田中河内介  図7> 清川八郎

文久2年に入る頃から、島津久光が大軍を率いて、上洛し、
倒幕に打って出る(中央乗り出し)という噂が日本中に伝わっている。

各地にいる尊王攘夷派の浪士達が、いよいよ自分たちが活躍する時期が来たと小躍りして、
是非薩摩隊に参加したいと九州に集まってきた。

その中に、
九州の真木和泉(=真木保臣:久留米藩士。禁門変で自害し、今楠公といわれた。図5>)や、
小河弥右衛門らは当然だが、

他に、丹後の浪人・田中河内介(公卿中山の家来で明治天皇の教育係だった:図6>)、
山形庄内の清川八郎(新選組のもとを築いた:図6>)などが薩摩に入ろうとしたが
丁重に断られている。

西郷隆盛は、久光の先鋒として先に出発して、下関で久光と落ち合う約束だったが、
西郷は、久光を待たずに京都に発っていたことから、久光の逆鱗に触れたのである。

西郷隆盛は、文久2年3月27日に、大阪に着いて、暫く、滞留している。
この時、西郷は、長州藩の大阪留守居役の久坂玄瑞にもあっている。
ところが、久光が伏見に上がってくるや否や、
西郷に対し船に乗ってすぐ薩摩へ帰れと命令がでた(4月10日)。

西郷は、浪士たちを扇動して暴動を企て、藩主の命令にも従わないなどの理由である。
それによって、切腹は免れたものの、2度目の離島送りとなって、寺田屋事件には加わっていない。

薩摩隊に入れなかった他の尊王攘夷の志士たちは、先に大阪入りして、
薩摩藩の大軍を待つ行動にでた。その当時、大阪には、日本中からおびただしい数の勤王志士たちが集まってきている。

そのころ、薩摩の誠忠組の激派である有馬新七らによって、計画が出来上がっていた。
その計画は、多くの志士の同意のものである。その計画とは、

「 関白九条尚忠を襲って幽閉し、京都所司代の酒井忠義をうちとり、
  安政の大獄以来、相国寺に幽閉されている青蓮院宮を助け出し、宮から天皇に志のある所を奏上してもらい、
  倒幕の勅を請下し、久光を盟主に担ぎ上げて、倒幕を達成しよう
 」

というものであった。そして、何度か変更があって4月24日を期して行動しようと決めて、浪士が京都に集まることになった。
長州藩邸、薩摩藩邸、そして、寺田屋である。その行動を久光が知る所となり、決行予定日の前日(4月23日)に、使いを出し、

「彼らを自分の所へ連れてこい。命令を聞かない場合は、上意討ちをせよ」
という命令を出し、腕の立つ9人を寺田屋に派遣した。実は、寺田屋には、33人がいた。

説得隊は、「君命である」という。
しかし、「宮の仰せは君命より重い」と有馬新八らは、従うことを拒否して、抵抗したが、「上意!」の一言で切られている。
しかし、多数は、君命に従い抵抗をやめている。

生き残った人々は、藩籍のあるものは、各藩に引き取られたが、藩籍の無い浪人たち(田中河内介親子など)は、
薩摩藩が引き取り、薩摩へ護送する途中に船上で殺害し海に投げ落としている。

【3】岡藩の小河弥右衛門の記録にみる当時の勤王志士の活動

岡藩の小河弥右衛門(右写真8:今年のNHK大河ドラマの寺田屋事件の場面に、別名の小河一敏として、重要な場面に少しだけ登場していた)は、 九州でも真木和泉と並んで名の通った勤王の志士であった。

そして、胤康の弟子である。 胤康が彼らの行動の基本となる考えを提供していたのである。
胤康も第2隊として、岡藩の同志を率いて出陣する予定であったが、
その直前(文久2年3月)に延岡藩によって、捕縛されて自由が利かなくなっている。

胤康と小河達との交流の記録を右の胤康の年表に記した。

胤康は、慶應2年に京都で牢死しているが、小河は途中、牢に入ることはあったが、
明治時代まで長生きし、各地の知事を務めるなど栄達をつかみ、そのため、記録が多く残っている。

胤康の考え方と彼のやりたかったことを探る意味で、
弟子である小河の寺田屋事件に向けての活動を小河の自筆の記録から見よう。

【2】の内容と重複する所もあるが、小河側の当時の意図と比較して頂きたい


ペリー来航の嘉永6年(1853)の前から、小河は、京都公卿の中山忠光の家臣田中河内介と交流があり、天皇が武門に下っているのを嘆いていた。

その矢先、小河が、熊本県にある黒川温泉に逗留している時に、 ペリー来航のニュースを聞き、いよいよ行動の時がきた(攘夷の時が到来)と興奮している。

すぐ、久留米の水天宮司の真木和泉平野二郎(筑前)、宮部鼎蔵(肥後)、 松村大成(肥後)と連絡しあっている。

その他、清川八郎(庄内)、是枝柳右衛門(薩摩)、安積五郎(江都)、海賀宮門(秋月)、 真木外記(久留米:和泉の実弟)が訪ねてきている。

胤康の年表にもあるように、小河は、胤康とも頻繁に情報のやり取りをし、互いに往来をしあっていることがわかる。
また、胤康は、小河の上司でもあり、胤康の弟子入りをしている岡藩家老の中川土佐に義挙を促す手紙を送っている。
しかしながら、この時点での実際の行動はできなかった。

そして、問題の文久2年が近づいてきた。

文久1年春、是枝(薩摩)と清川八郎(庄内)が小河を訪ねてきた。 和子内親王の関東降嫁を憤り、幕府廃立(倒幕)を考えるようになる。

同年12月に、真木外記安積五郎が訪ねてきて旧交を温める。

文久2年二月、小河と広瀬が九州を旅して、久光の中央乗り出しの噂を聞き、真意を確かめようと薩摩に入ろうとした時、
久光は、最近の小河たちの急進派の活動を聞き及び、(薩摩藩士)村田新八らを使わして、久光の考え方を伝えさせた。

それによると、

「久光は、先代斉彬の遺志を継ぎ、勤王の志はある。
今回の上京は、別に図る所はないが、天下の形勢は測りがたい状況なので
、貴藩(岡藩)の協力を頼む日もないことはない」、

また薩摩藩による護衛も十分に厳しくしているから、御心配に及ばないと、軽挙を戒めてきた。

これを聞いて、小河は、久光の意図とは異なる考えを持ち、急ぎ、帰国し同志に発信した。

また、京都から田中河内介清川八郎から小河に上京する様に要請があったので、小河は同藩の同志16名と上京を決意し、胤康に第2隊を率いて上京するように依頼している。

小河の隊に
平野二郎(筑前)も加わり、そして、下関に来た時に、更に、2人が追い付き、最終的に、彼の隊は総勢19名となった。

下関で、小河は、薩摩の西郷隆盛(菊池慎吾と名乗っていた)、村田新八、森山新蔵、そして長州の山田亦助達と会っている。

この時、小河は、西郷隆盛に初めて会ったが、その人物の大きさに感動している記録が残っている。

上京後、勤王の志士達は、いくつかの隊に分かれて、4月24日を期して、以下の様な事を起こす約束をしている。

  1) 小河と田中の隊は薩摩の志士と一緒に、九条関白邸に侵入する計画であった。
  2) 長州の久坂玄瑞の隊は、所司代を襲い、土州の吉村寅太郎の隊は別動隊として、臨機応変に対応することになった。
  3) こうして、青蓮院宮の幽閉を解き、これを奉じて宮廷に入り聖断を仰いで大詔を発してもらい、
  4) 久光の行動を決めさせ、王政復古の号令を出してもらうという計画であった。


ところが、この計画を久光の知る所となり、伏見の寺田屋の変(4月23日)となった。
小河は、別の所にいて、免れた。田中河内介の父子と海賀宮門は斬首された。

島津久光経由で天皇から小河ら同志は、叡感状をもらっている。
しかし、帰藩すると、藩主より禁固された。

ところが、藩主が上京した時、青蓮院宮や近衛関白からなぜ志士を禁固したのかと詰問され、慌てて、禁固を解いた。
その後、再び、藩主により禁固されたが、明治維新で解放され、堺県知事等に任命されている。

以上が、小河の手記の概要である。

小河の記録からはよくわからない点は、寺田屋事件の起きた時、小河がどこにいたかである。
別の資料を見ると、寺田屋事件の騒動が終了したのが夜中の2時ごろであるが、
丁度その時に、小河ら岡藩の連中は伏見に到着している。

大阪から今回の儀に参加する壮士たちは、目立たないように三十石船に分乗して上京することにした。
小河たちは、最後の便になったので、間に合わなかったのである。

もう一つの疑問は、薩摩藩士と一緒に行動しようとしていた長州藩の行動である
長州藩は、薩摩浪士たちを資金面での支援をしており、長州藩は家老の一人である浦靭負が、国元から100名以上の手勢を率いて、
今回の反乱(寺田屋事件の翌日に決行予定)に参加する予定で、長州藩の京都藩邸に集まっていたのである。

事件直後、長州藩の加担の噂を聞いて、久光は、正式に長州の京都藩邸に使者を出したが、長州藩は、家老と久坂玄瑞が対応して、
しらを切ってその場をごまかしたのである。

【5】尊王攘夷運動のその後

特に、文久年間、京都を中心に吹き荒れていた尊皇攘夷の動きは、今回の寺田屋事件で、
各藩を脱藩し浪人となった個人レベル(草莽レベル)での尊皇攘夷の運動は、大きな曲がり角に来た。

寺田屋事件の1年後、文久3年8月18日の朝廷における公武合体派によるクーデターによって、公武合体派が、
朝廷と幕府の正式の路線となり、尊皇攘夷(倒幕派)の流れは完全に亜流となった。

この直後、小河は、武市半平太と京都であって今後の行動について意見を交換している。
過激派たちは、日本中で、小さなクーデータ―を起こすがことごとく鎮圧されている。

その最たるものが、翌年の元治元年7月、長州藩の久坂玄瑞らによる禁門の変である。
公武合体論が、主流となると、土佐では、武市半平太も捕まり、処刑されることになった。

公武合体論は、幕府の保護論ともいえるが、この数年後には、倒幕となるわけで、結局、尊皇攘夷論(=倒幕論)が勝ったことになる。
不思議な流れである。なぜ、胤康、武市半平太、久坂玄瑞が死ななければいけなかったのかがわからなくなる。

【6】資料

    1) 竹田町教育会   : 奮岡藩勤王家略伝(小河弥右衛門伝) (昭和15年出版)
    2) 高木俊輔著    : 幕末の志士。草莽の明治維新 (中公新書)
    3) 海音寺潮五郎著 : 寺田屋事件 (文春文庫)
    4) 井上清著     : 西郷隆盛(上) (中公新書)
    5) 若山甲蔵著    : 勤王史譚胤康和尚(蔵六書房)(大正9年出版)     



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